手で文字を書くことについて

 以前にNHKのドラマ「光る君へ」を見ていて思ったことを書く。このドラマは紫式部の「源氏物語」に関わる話だが、平安時代は紙に墨で筆を使って文字を書いていて、まだ日本には印刷技術が無かった。そこで複数の書物を作成するには写本が行われた。紫式部の文字は草書体であり、アルファベットの筆記体と同様に複数文字を繋げて書くことができる。ところで、日本語ではかつては横書きも縦書きも紙の右側から書き始めていた。ただし、墨と筆で文字を書く時は手の平を紙から浮かして離すようにしていた。その結果、紙がこすれて乾いていない墨で汚れることがない。一方、既に書いた文字は手に隠れて見えない。それに対して、英語では横書きのみで紙の左側から書き始める。したがって、手の平を紙に付けて書いても紙が汚れることは無いし、既に書いた文字は見ることができる。この違いは思考にどのような違いとなるのだろうか。たぶん、日本人は書こうとする内容を脳内で一旦形成した上で脳内の文字画像を紙に写本している。たぶん、西洋人は既に書いた文字を見ながら思考しながら文字を選んで続きを書いている。その結果、両者には思考方式が異なる可能性があるのだ。一方、いずれにも共通なのは複数の文字が繋がっていることだ。人の手を用いたアナログ入力な点は共通なのだ。ただ、西洋ではタイプライタの普及が早かった。これは人の手を用いたデジタル入力である。今は日本人もワープロ方式のキーボードを用いたデジタル入力が大半となってきた。手書きにおいても横書きは左側から書き始めるように変わった。その結果、思考パターンが西洋化してきた可能性がある。かつての日本人の脳内写本を用いた思考方法が現在の日本人において失われていくのは本当にかまわないのだろうかと気になってきた。かつては「写経」は意味が無くて時間の無駄ではないかと思ってきたが、今はそうでも無いような気がする。「写経」も脳内写本による思考方法を用いている可能性があるからだ。そして、脳内写本による思考方法は個人的な思考実験のような発見的思考と共通する部分が多い気がする。。。なお、さらに気になるのは、目からの視覚情報が右脳の視覚野及び左脳の視覚野にそれぞれ入った後に、右脳においてはイメージとして視覚情報処理が行われる。一方、左脳においては左脳の言語野で言語表現に変換される。そうならば、脳内写本は右脳のイメージとしての視覚情報処理を強化していることにならないだろうか。右脳を強化しつつ左脳を使うことで発見的思考が円滑に行い易くなるということはないだろうか。。。